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おおいた法曹界見聞録(弁護士河野聡の意見)
   「法廷でモノを言えない当事者」
 
市民にとって、裁判官は何を考えているのか分からない存在だ。自分の権利を主張して裁判に訴えていても、裁判官は本当に自分の言い分をよく聞いて公平に判断してくれるのだろうか、と不安で仕方がない。だから、たとえ弁護士を代理人につけていても、一言「裁判官どの」とモノ申したくなる。「慎重に審理して、公平な判断を」などということは、言わなくても当然のことかもしれないが、言っておかなければ心配なのが当事者の心理である。
法廷でモノを言えない当事者
また、大企業相手の公害裁判、国や地方自治体相手の国家賠償訴訟、住民賠償訴訟などでは、裁判を起こした意義を裁判官にしっかりと理解してもらい、『強者の論理』ではなく、法と良心のみに従った公正な裁判をするようにうったえたいと考えるものである。
 
多くの傍聴人がいたり、マスコミが注目している裁判では、裁判の意義をより多くの人々に理解してもらい、社会の支持のもとに主導的に審理を進めたいと考えて、弁護士も当事者本人に法廷で意見を述べさせたいと考える。当事者の言葉は、弁護士が述べるよりも生々しい迫力があり、人々の心にも響くからだ。
 
社会の側から見ても、裁判が弁護士たちの専門用語が飛び交うだけのものではなく、素人である市民の言葉で進められることによってはるに分かりやすいものとなり、審理の公開の意味があるものとなるのである。
 
ところが、このような当事者本人の意見陳述を全くさせないか、ひどく制限する裁判官がいる。
 
大分地裁では民事の裁判部が2つあるが、そのうち一方の裁判部の裁判長は、この意見陳述を全くさせようとしない。理由はただ一つ、「ムダだ」ということだ。訴訟の進行に関係がなく、記録にも残らないような意見陳述をしても何にもならない、裁判所はそんな意見には左右されないというのである。
 
数年前、立命館アジア太平洋大学に別府市が多額の補助金を支出することを決めた問題について、別府市の一主婦が差し止めを求めて住民訴訟が大分地裁に起こされた。私が代理人を努めたのだが、支援者が多く、社会的にも関心を集めている問題だったし、何よりも住民訴訟というのは、一住民が起こしても、その結果は全住民に効力が及ぶ重大なものである。だから私は、その主婦がなぜ訴訟を起こしたのが、訴訟の中で明らかにしようとしているのか、そして裁判所に何を望んでいるのか、などの点を訴訟の冒頭でその主婦に述べてもらおうと考えた。
 
それで期日の前に、あらかじめ裁判所に「原告の意見陳述のために10分くらい時間をください」と申し入れておいた。ところが、事前に書記官から連絡があって、「当事者の意見陳述は認めない」というのである。私はさっそく裁判長に面会を求めて、意見陳述の必要性を強くうったえた。しかし裁判長は、「とにかく私は当事者に意見陳述はさせないことにしている」と繰り返すだけだった。
 
そもそも、当事者が訴訟の進行について意見を述べることは当然の権利である。代理人弁護士がついていても、当事者本人が発言権を失うわけではない。それを制限しようというのは、裁判官が法律の素人である当事者の意見を聞いても意味がない、時間のムダだと思っているからである。
 
こんな裁判官では、とうてい安心して判断を任せられないと思った。果たして訴訟の結果は予想通りだった。

もっとも、こんな極端な裁判官は例外で、ほとんどの裁判官は当事者の意見陳述によく耳を傾けてくれている。裁判官は公平な立場にあるということで、普段は当事者の意見陳述に対してはあまり反応は示さないが、時には当事者の切々としてうったえを、表情豊かにうなづきながら聞いてくれる裁判官もおり、ほっとした気持ちにさせられる。
 
しかし、現実問題として、今後はこのような裁判官は減っていき、先に述べて大分地裁の裁判長のような人が増えていくことが予想される。それは、98年1月1日から施行された改正民事訴訟法が、訴訟の迅速、効率をスローガンに、審理をなるべく法廷で行わないようにという方向を打ち出したからだ。
 
新民事訴訟法は、訴訟に時間がかかり過ぎている現状を改善して国民が訴訟を利用しやすくしたものと宣伝されている。そして、そのために、例えば、第1回目の期日から法廷では審理しないで、小さな会議室で主張を整理したり、審理の進め方を協議したりして、争点をはっきりさせてから一気に証人調べを行う、という方法が導入される。書面を交換するだけの無意味な口頭弁論は省略しようというわけだが、結果的に、当時者が法廷の場で、多くの傍聴人の前で自分のうったえを裁判所に伝えるという意見陳述の機会は少なくなってしまう。
 
普通の裁判では迅速・効率は大変よいことだが、大企業や国を相手にした裁判で、裁判所が迅速や効率を追求したのでは、市民は大企業や国の圧倒的な人的・物的な力の前にひれ伏すしかない。そのうえ、多くの人々の理解と社会の支持を得て裁判を進めていくために、当事者が法廷で意見陳述をする、ということさえできなくなってしまったのでは、とても大企業や国とは対等に闘えない。
 
裁判を市民に分かりやすいものとし、使いやすいものにするというのは、決して効率を追求して迅速に進めることだけで実現されるものではなく、市民が裁判所で親身感覚でモノを言って、それが通用するという状況を作ることの方が重要ではないだろうか。
 
「アナタは法律の素人だから黙っていなさい」「弁護士がついているんだから、発言は弁護士を通してだけしか許しません」などと言われたのでは、市民は裁判を起こす気力も湧かないだろう。
 
裁判を市民の手に取り戻すためには、大企業や国などに対する裁判では、市民が裁判所の制限をものともせず、言いたいことを言う姿勢を貫くことが大切だ。
 
掲載 : 月刊おいたん 1997.12
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弁護士法人 おおいた市民総合法律事務所